タグ:展示, 文庫, さ, さよなら銀河鉄道999, アンドロメダ終着駅, ノベライズ, 若桜木虔, 集英社, コバルトシリーズ, 1981(昭和56)年
巻頭カバー | 銀河鉄道999は、再び宇宙へとび立った。乗客は星野鉄郎ただ一人。途中ぶきみな幽霊列車におびやかされながら、最初の停車駅ラーメタル星に着いた。そこで鉄郎は機械化人と人間の壮絶な戦いにまき込まれた。そんな鉄郎を救ったのは、キャプテン・ハーロックとパルチザンのミャウダーだった。さらに懐かしいメーテルに再開したが、彼女は機械帝国の女王だという噂が・・・・・・。機械帝国とは!? |
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目次 | 第一章 動乱の時代がやってきた 第二章 999からのメッセージ 第三章 行く先不明の999の旅 第四章 たった一人の戦士として 第五章 メーテルの故郷の謎の星 第六章 銀河鉄道の新しい支配者 第七章 再びアンドロメダ星雲へ 第八章 機械帝国の女王メーテル 第九章 サイレンの魔女が歌う時 第十章 さようならアンドロメダ |
奥付 | さよなら銀河鉄道999 1981(昭和56)年08月15日 第1刷発行 1981(昭和56)年11月25日 第4刷発行 |
著者 | 若桜木虔 |
原作・監修 | 松本零士 |
発行者 | 堀内末男 |
発行所 | 株式会社 集英社 〒101 東京都千代田区一ツ橋2-5-10 電話 東京(230)6171(販売) (230)6268(編集) |
印刷所 | 株式会社美松堂印刷所 中央精版印刷株式会社 |
定価 | 280円 |
備考 |
アニメという、視覚に訴える作品がありながら、なぜノベライズ作品があるのか?
これについては、劇場版『銀河鉄道999』のノベライズ文庫のコラムに私見を書いたが、少なくともノベライズ作品もひとつの世界を提示しているし、それはマンガやアニメの世界でも等しく「想像力」が必要であるから、ノベライズ作品は余計に想像力が必要なだけで、原作がありつつ別の作品世界を見せてくれるといった意味では同列である。
そういった意味で、このコバルトシリーズのノベライズ作品は秀逸で、アニメ映画の原作世界を小説として魅力的に成立させている。
例えば、メーテルと別れて地球に戻った鉄郎と、地球に残っていた生身の人間たちは、なぜ雨の中、廃墟となったメガロポリスで機械化兵とゲリラ戦をしているのか? 前作で鉄郎はハーロックとエメラルダスの助力を得て、機械化母星メーテルを破壊し、プロメシュームを倒したではないか。
劇場版『さよなら銀河鉄道999』は原作(マンガ)がなく、映画として企画された経緯はあるが、映画では何の説明もないままに、いきなり機械化兵と生身の人間の戦闘シーンから始まるし、その説明は最後までない。
劇中アニメに説明がないのなら、その映画パンフレットに何か書いてありそうなモノだが、映画の「解説」の部分で「時が流れ、星野鉄郎は、機械化人により占拠されつつある地球を救うため、再び999にのり、ひとり最後の旅に出る。」としか書かれていない。
では、この部分に関して、本書ではどのように書いてあるのか、ちょっと長いが引用しよう。
機械化母星メーテルの消滅によって、銀河鉄道時代は終わった。
機械化人間の支配する時代は終わる、と鉄郎は思った。
(中略)
機械化母星メーテルを破壊したからといって、鉄郎の思ったほど簡単に機械化人間の支配する時代は終わらなかった。
地球も、メガロポリスも、依然として機械化人間たちが支配し続けた。
しかし、母星メーテルの崩壊は生身の人間の希望にはなった。
千分の一、万分の一の微々たるものではあっても、機械化人間に勝って自由をとり戻せる可能性がある。
機械化人間といえども、不敗、不滅の存在ではない・・・・・・。
生身の人間たちは武器をとって立ち上がり、ゲリラとなって機械化人間たちに戦いを挑んだ。
走り回り、駆け抜け、エネルギー弾と破壊重力砲の十字砲火の中を、血にまみれながら戦った。
撃ち倒し、撃ち倒され、爆破して破壊し、息の根を止められ・・・・・・人間たちは倒されても倒されても、あらん限りの死力を尽くして戦った。
しかし、その長い戦いも終わりの時がようやく迫っていた。
(この二年間は、全くの無駄だったというのか・・・・・・)
鉄郎は認めたくなかった。
だが、惨めな敗北はいやでもハッキリと眼前に迫りつつあった。
何も変わりはしなかった。
おびただしい血が流れただけで、何も変えることはできなかったのだ。
メーテルからだとする、「私はメーテル。鉄郎、999に乗りなさい」のメッセージと、機械化兵との激しい戦闘で廃墟になった、銀河鉄道中央ステーション99番ホームに奇跡的に999号が待っていたにせよ、鉄郎が再び地球を離れて旅をする大前提は、上記引用した内容から分かる通り「地球を自分たち生身の人間が取り戻す」ためであった。
ここでひとつ注意しておかなければならないのは、ノベライズ作品と言っても、映画の内容をそのまま文章化したモノではなく、限りなく映画を原作としながらも、独自の作品世界を展開し、映画の世界と相互に深く高める内容になっている点だ。
本作映画では(その設定資料集でも)、森山周一郎が演じた老パルチザンを含め、パルチザンB・C・Dといった役名しかないが、本書では老パルチザンには「ゼム」、その他パルチザンには「タカミ」(正式名は
ゆえに、映画を観ただけでは理解しにくい部分も、本書では小説といった別作品として丁寧に解説をしてくれるし、また、映画を観た時とはまた別の発見や示唆を与えてくれる。
そういった意味で、日本語の言葉と文章の可能性は、マンガやアニメと同様に果てしがないことを示していると言えるだろう。
なにより、同作のアニメファンに小説世界を読ませるといった意味で、作家の力量もさることながら、ネットのウェブサイトで拙い記事を書いている私ごときには、永遠に真似が出来ない作品世界がそこにある。
それもこれも、私が拙い日本語でこうして駄文を書くよりも、本作や前作『銀河鉄道999』のノベライズ作品を読んでもらうしか、本質的な「答え」はないように思う。
私が小学生でプログラマを目指した理由は色々とあるが、少なくとも作家を目指さなかったのは、こういった小説を読んでいたから、とも言える。
後年、中学生になって太宰治にハマりまくり、今でも熱心な太宰ファンだが、自分で文学をやろうと思わなかった理由も、原点はこうした小説を読んで「自分には無理だ」と理解していたからに他ならない。