タグ:管理人的親不知讃歌, 2021(令和03)年, 解説のようなモノ, 銀河鉄道999, THE GALAXY EXPRESS 999, メーテルの秘密, 講談社, さいとう・たかを, 永島慎二, 劇画, 宮沢賢治, 銀河鉄道の夜, 文学論, マンガ論
2021/09/30
「とっとと04巻目の解説のようなモノを書かねば」と思いつつ、毎日の世事・俗事に追われ、やっと確保した自由時間の中で骨が折れる記事の執筆は、なかなかに難しい。
私自身は文章を読むのも書くのもさして苦ではないどころか、むしろ好きなぐらいだが、プロの文筆家ではない趣味の駄文家であるから、主題とする内容の背景とそれについての考えをまとめ、文章化するのは簡単ではない。
などと、シカツメらしく凡夫の言い訳をしたところで時の流れは止めようがなく、先日またしてもマンガ界の巨星が不帰の客となった。
この報を受けて、松本零士先生もTwitterでコメントを発信されている。
今の若い人はさいとう・たかをと言えば『ゴルゴ13』ぐらいしか知らないだろうから、ちょいと蛇足しておきたいと思う。
1950~1960年代の貸本屋全盛期に、劇画で「西のさいとう・たかを、東の永島慎二」と並び称されたほど、当時は劇画が隆盛を見せていた。
それまでのマンガと劇画をザックリ簡単に比較すると、劇画の場合は人物や背景といった絵柄が写実的なタッチになり、コマ割もダイナミックに展開するため、従来のマンガより「リアリティ」が増す表現だと言える。
ゆえに、現実社会から材を取る『ゴルゴ13』や、誰もが知る有名どころでは梶原一騎原作のスポ根マンガ『巨人の星』(川崎のぼる)、『柔道一直線』(永島慎二)、当時も今も反日サヨクから絶賛される『カムイ伝』(白土三平)といった劇画の名作が1960年代に生まれたのだ。
また、当時は「マンガは子供が読む低俗なモノ」といった風潮が根強く、劇画の登場によって青年層の読者を獲得していった、と言えるだろう。
時代背景的には全学連による学生運動が激化した「政治の季節」であり、サヨク学生が『月刊漫画ガロ』(青林堂)を読み、反体制的革命マンガやベトナム反戦マンガ(劇画)等を投稿していた。ちなみに意外かも知れないが、泉谷しげるも『月刊漫画ガロ』に劇画を投稿していた一人だったりする。
1960年代までの背景がザックリ分かったとして、では、なぜ私のような1970年代以降に生まれたオッサンが『ゴルゴ13』を知っているのか?疑問に思うかも知れない。
その秘密は理髪店(床屋)にある。
美容室には女性誌やファッション誌が普通に置かれているように、理髪店にはマンガ雑誌やマンガ本が普通に置かれており、それは今も昔もそう変わらない。
ただ、理髪店の場合は子供から老人まで様々な年齢層の顧客が来店するため、各種新聞のほか、順番を待つ客が時間つぶしに読むマンガは、幅広く年代をカバーする青年マンガ誌(※18禁ではない)や、『ゴルゴ13』のような劇画の単行本が丁度良かったのだと思われる。
私もそうだったが、普段は『月刊コロコロコミック』を愛読しているような小学生が、理髪店で青年マンガ誌や『ゴルゴ13』を読んで背伸びをする、なんて非日常が新鮮でもあった。
長くなりついでに余談だが、私の亡母の実家が大正だか昭和の始めだかから、今も理髪店を営んでおり、小学生の頃はお盆の母の帰省のたびに伯父に散髪してもらったもので、ある時「なんでこんなマンガばっかり置いてるの?」と聞いたことがある。小学校低学年の私には『ゴルゴ13』は難解だったからだ。すると伯父は「このマンガ家の実家は伯父さんと同じ床屋でな、このマンガ家も元は床屋なんだよ」と教えてくれ、大いに納得したのを覚えている。
その伯父も昨年亡くなったが、さいとう・たかを氏の霊が安らかんことを、謹んでお祈りしたい。
この映画の素晴らしさは、ちょっとやそっとでは語り尽くせないが、映画公開時でも原作マンガは連載中だった(最終巻である原作コミックス18巻は1981(昭和56)年12月15日発売)。
そしてもうひとつ特筆すべきは、999号が終着駅である「機械化母星メーテル」に到着し、あわや生きた機械のネジにされそうな危機を脱して攻撃に転じる時、アルカディア号も駆け付け、キャプテン・ハーロックが言うセリフだ。男なら危険をかえりみず
死ぬとわかっていても行動しなければならない時がある・・・
負けると分かっていても戦わなければならない時が「戦場まんがシリーズ」(のちの「ザ・コクピット」シリーズ)を1973(昭和48)年から描き続けていた松本零士先生であるから、先の大戦で散華された英霊のことを、映画のラストでハーロックの口を借りて言っているのだろう。
色々な意味で、松本零士アニメの最高傑作だと言える。
さて、またしても派手に前置きが長くなったが、最終巻だからかFacebookページに書いていた解説のようなモノは、前回までに比べると幾分マシな内容にはなっている。しかし、所詮はFacebookページだとは言え、これでは説明も言葉も足りないから、本稿で補うとしよう。
03巻の終わりで、機械伯爵を倒した鉄郎にハーロックは「これでおまえの復讐も終わったわけだな鉄郎・・・」と声をかけるが、鉄郎は「それは違います」と反論する。
限りある命だから・・・
人は精一杯がんばるし 思いやりや優しさがそこに生まれるんだと・・・
そう気がついたんです・・・
機械の体なんて宇宙から全部なくなってしまえと・・・
僕たちはこの体を永遠に生きていけるからという理由だけで
機械の体になんかしてはいけないんだと気がついたんです
だから・・・
僕はアンドロメダの機械の体をタダでくれるという星へ行って
その星を破壊してしまいたいのです出典:『講談社アニメコミックス 銀河鉄道999③』(講談社・1979(昭和54)年10月05日 第1刷発行)
鉄郎とメーテル、ハーロック、エメラルダスはそれぞれ「トレーダー分岐点」(惑星ヘビーメルダー)を飛び立つ。
メーテルは食堂車で母の仇を討った鉄郎と祝杯を上げるが、同時に自分に対する鉄郎の気持ちを知る。同時にまた、鉄郎の気持ちを知ったウエートレスのクレアの心情は・・・。
鉄郎は飲んだこともないであろうワイン(?)で、客車に戻ると寝てしまい、そのまま終着駅「機械化母星メーテル」に到着し、すべてを理解する。
教訓:タダより高いモノはない(違
冗談はさておき、エメラルダスはアルカディア号の「心」となったトチローからの通信で、ハーロックは鉄郎から直接覚悟を聞いているため、それぞれ「機械化母星メーテル」へ鉄郎の助太刀に向かう。
ハーロックやエメラルダスが派手に戦っている頃、内部ではメーテルから鉄郎の手に渡った、メーテルの父で反機械化世界を目指したドクター・バンのペンダントが機械化母星メーテルの中心から崩壊させ、今までメーテルが連れてきた機械帝国を破壊する(機械化母星メーテルの)主要な部品となった名もなき同志が、機械帝国の崩壊を加速させて行く。
辛くも999号で脱出する鉄郎とメーテルだが、鉄郎はメーテルの体の秘密を知り、また、最後の最後にメーテルの母にして機械化帝国の女王、ラー・アンドロメダ・プロメシュームが鉄郎をメーテルから奪い去ろうとし、クレアがその身代わりで犠牲になったりと、最後まで手に汗握る展開が続く。
・・・・・・そして地球に戻った999号は、再びメーテルだけを乗せて、新たな旅へとメーテルが旅立つところで映画は終わる。
今さら私ごときが「これぞ松本零士アニメの最高傑作!」みたいな文章を書いたって仕方がないが、劇場公開から今日までざっと40年、私は本作をノベライズ作品や本アニメコミックスその他で、映画館で、テレビ放映で、DVDで、飽きもせず一体何度読み、何度観たことだろうか。
ただアニメを観て喜んでいた少年は、やがて文学を知り、社会に出て青年になり、世の中の仕組みを知って世間の苦労を味わい、今や初老の中年になったワケだが、この壮大な物語は少年の頃から折に触れて様々なことを教えてくれ、考えさせるキッカケになった。
例えば上述したハーロックのセリフ「男なら危険をかえりみず 死ぬとわかっていても行動しなければならない時がある」や、鉄郎のセリフ「限りある命だから・・・人は精一杯がんばるし 思いやりや優しさがそこに生まれるんだ」を、戦中派らしい松本零士先生の「日本人としての矜持」と「日本人としての死生観」のメッセージとして私は受け取り、理解している。
特に前者には大東亜戦争末期の特攻隊を彷彿とさせ、後者は御英霊の尊い犠牲の上で成立している、戦後ニッポンを生きる我々日本人の生き方として教えられた気がする。
また『銀河鉄道999』は、松本零士先生ご本人がそう述べているように、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』をヒントに創作し、オマージュした作品であることも知られている。
私はまったく別の興味から若い頃に宮沢賢治を読んだクチではあるが、端的に言えば『銀河鉄道の夜』で描かれている銀河鉄道は「死後の世界」であり、主人公のジョバンニは思春期の傷付きやすい内向的な少年であることが分かるだろう。しかも父親が長らく漁から戻らず、病気で寝込んでいる母親を抱えているため、放課後は活版所でアルバイトをしなければならない苦労人でもある。
少年だった松本零士先生が『銀河鉄道の夜』の世界観に共感し、19歳で九州から上京する夜汽車の中での体験を含め「作品にしたい」と、構想を温め続けていたのも頷ける。
岩手を「イーハトーブ」と呼んで理想郷とした宮沢賢治の心象世界に対して、松本零士先生は「アルカディア」を理想郷とした心象世界を持っているから、自ずと同じ「銀河鉄道」であっても、宮沢賢治が「死後に宇宙へ還る」(死んで宇宙の真理へつながる=恐らくそこから輪廻転生がある)としたならば、松本零士先生は「無限に広がる未開で無法のフロンティア」として拡大したのではなかろうか、と想像する。
そこで松本零士的宇宙では、機械の体になって永遠に生きることは、実は「人間としての死」を意味し、そういった意味で「銀河鉄道999」は死のメタファーでありながらも、星野鉄郎やキャプテン・ハーロック、クイーン・エメラルダスの登場によって「新たな旅立ち」といった新生のメタファーに変貌させている、と言えるだろう。
残念ながら宮沢賢治の場合は急性肺炎で急逝し(享年37歳)、『銀河鉄道の夜』は晩年まで手を入れていたものの草稿のままで、生前発表されることはなかった。もし仮に宮沢賢治が長命を保ったなら、法華経(大乗仏教)の輪廻転生を組み込んだ可能性がないでもないが、私はハッピーエンドもしくは別の物語につながる作品としては想像が出来ない。
ともあれ、宮沢賢治にしても松本零士先生にしても、名作として世に残る作品はそれだけ奥深く、ゆえに様々な作者の思想や意図やメッセージが込められていると言えるが、私は文学とマンガやアニメの決定的な差は、「ロマン」にあるだろうと愚考する。
本作でも、宇宙へSLで旅をするという果てしのないロマンが根底にあり、少年の日の夢や希望、そして初恋といったロマンがふんだんに盛り込まれている。
とは言え、別に文学にロマンが無いと言うのではなく、そのスケールと物語性において、仮にいくらSF小説が頑張っても、マンガやアニメのように後世に残る名作は難しいと言えるのではないか、ということだ。
なぜなら文学(例えばSF小説)には読み手の想像力に限界がない(規定されない)からであり、少なくともマンガやアニメには視覚的な限定(限界)が規定されるからだ。つまり、逆説的だが「無制限の自由」といったモノは存在し得ないから、マンガやアニメには無限のロマンが持ち込めるのである。
それもこれも、日本は古来より『万葉集』や『源氏物語』といった世界に類を見ない文学と歴史を持つ国であるからこそ、現在の「クール・ジャパン」を支えるマンガ・アニメ文化が花開いたと言えるだろう。
ゆえに、マンガやアニメであっても、それを創作する側はモチロンのことながら、読み手にも教養と理解力がなければ、文化として続かないのは言うまでもないことなのだ。
さて、日本はいつまでマンガ・アニメ文化で世界をリードし続けるだろうか?
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