松本零士「時の輪の接する場所で」の解説らしきモノ


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管理人的親不知讃歌

2022/04/28

高校1年生の物理の授業で、先生が黒板に板書した「E=mc2」の数式と「質量とエネルギーの等価性」について、アインシュタインの「特殊相対性理論」の説明を聞き、がぜん物理の授業が好きになった。
数学には無い「面白さ」と「実用性」を発見したからかも知れないが、数学とは比較にならないほど成績は良かった。

「時の輪の接する場所で」とは?  

展示ページの「原作」欄に掲載した、松本零士先生の「時の輪の接する場所で」という概念というか考え方は、古くは『ミライザーバン』(1977(昭和52)年・朝日ソノラマ・全3巻・当私設博物館では管理人の私がスッカリ忘れていて未展示 展示しました)で示されている。
それが松本零士先生の宇宙観や人生観の根幹を支えているのでは?と愚考するのだが、詳細な内容は展示ページ当該欄の内容を参照して欲しい。
それと、全く別な意味において「物質の質量が持つエネルギー量は光速の2乗を掛けたモノである」のは、原爆という形で広島と長崎で証明されてしまった。

アインシュタイン「特殊相対性理論」

宇宙は謎と神秘でしかないものの、「ビッグバン」という大爆発から始まったのだと仮定した場合、「宇宙は拡大し続けている」のを説明したのが、アインシュタインの「一般相対性理論」だ。
私は門外漢で詳しい説明は出来ないし、とてもではないが「一般相対性理論」を理解しきれてはいないものの、「質量とエネルギーの等価性」で考えれば、質量の消失はエネルギーの発生を意味し、エネルギーの消失は質量の発生を意味することになる。
よって、エネルギーを転換すれば「無から質量が生まれる」ことになるが、その「エネルギーの転換」が謎で、証明が出来ないに過ぎない。中学レベルの理科で言えば、「エネルギー保存の法則」と言えば分りやすいだろうか。
その宇宙最初の「ビッグバン」は謎でしかないが。
ともあれ、惑星(質量)が消失する際にはエネルギーが発生するだろうし、そのエネルギーが消失する際に質量(惑星)が発生すると考えれば、「宇宙は無限に拡大する」ことになる。
そこに人間的な時間のモノサシで考えるのはヤボで、それこそ天文学的な時間スケールで考えるべきである。
とすると、そもそも「時間とはなんぞや?」という話になり、2次元と3次元の現世的な話から、ドラえもんの「四次元ポケット」や「タイムマシン」で親しみのある4次元的な話に、どうしたって飛躍するだろう。
それをマンガやアニメの様々な作品でモデル化して提示した元祖が、松本零士先生だと私は思っている。

タイムマシンは実現可能か?  

現代の科学では、やはりアインシュタイン相対性理論によって、「タイムマシン」は理論的に可能であるとされている。
ただし理論上、過去にしか行けないし、そのエネルギーをどうやって調達するのかは不明なままだ。

某タイムマシン

松本零士先生の「時の輪」理論では、たった今過ぎ去った過去が最新の未来であるという解釈である。
そしてその「時の輪」は軸線がいくつもいくつもズレた「球体」として存在し得るので、ちょっとでも軸線がズレれば、未来も過去も違う「時の輪」として存在する(この辺の理屈が飲み込めない人は、映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のパート2パート3をおさらいして欲しい)。
この辺の背景(?)を理解した上で、展示ページの「原作」欄掲載の「時の輪の接する場所で」を読むと、松本零士先生のメッセージがより正しく伝わるのではないか?と思う。
結局のところ、自分の未来は自分で切り拓くしかないのだし、それもやりようによっては運命や宿命を変えるほど、「時の輪」の軸線を変更することが可能かも知れない。
だからこそ、「明日の自分は今日より強い」と言い得るのである。
恐らくそれは、読者によっては今現在の自分の年齢に無関係な話でもあるだろう。
だが、「やる」か「やらない」か、人生は常に二択でしかない。
ゆえに、タイムマシンは理論的に実現可能だが、仮に過去と未来を自在に行き来できたとしても、そんなモノが人生に必要だろうか?

やるか、やらないか  

日本コンピュータ産業の父である富士通の故・池田敏雄は、「全ては感動からはじまる。感動したら無条件に取り組むべきだ」と言っている。

田原総一朗『日本コンピュータの黎明―富士通・池田敏雄の生と死』

経済を知らずして政治を語るなかれ、その逆もまた真なり。経済を語るには、「商売」が解っていなきゃならない。
それはともかく、人は「感動する」モノには、お金を払ってでも「欲しい」と思うのだ。
池田敏雄は当時不可能だと思われた「国産コンピュータ」を可能にして商売にし、日本の屋台骨になる産業にした技術者だ。
松本零士先生も、当時「子供が観る低俗なモノ」といった評価のマンガやアニメを、「クール・ジャパン」として世界に知らしめた一人である。
私は様々に理由を付けた挙げ句、口だけ一人前の「やらない」人に、興味はない。

2020(令和02)年07月09日 私設松本零士博物館(Facebookページ)掲載内容を一部改変・加筆

おわりに  

私は小中高校と公立で、大学だけ私立を卒業したが、今思えば素晴らしい教師に当たったと思うし、奇跡的だとすら思う。
大学では後輩想いの熱い教授が熱弁を振るう授業を多数履修できた。母校の卒業生ではない教授でも、やはり優秀で素晴らしい教授ばかりだった。
共通しているのは「児童・生徒・学生想い」の先生ばかりで、「いかに面白く興味を持つように教科を教えられるか」に心を砕いていたと思う。
ゆえに、私は漠然と教師になる憧れを抱いたものだが、実際は大学で教職の履修を断念せざるを得なかった。教育実習で商業高校のJKにキャーキャーいわれたかも知れないのに。
それはともかく、中1と中2の数学の先生は特に素晴らしい先生で、中2の時のN本先生なんかは、私が高1の時に居酒屋で一杯おごってくれた上に、「私は元々文学少女だったのよ」と、当時太宰治にゾッコンでイカレてる私に面白い話を沢山してくれた。
それでも、私は数学が苦手で嫌いで、今でもダメだ。
冒頭でも書いたように、数学に「面白さ」が発見できず、生来「型にはまった考え方」に抵抗があるから、方程式や定式に当てはめる数学が面白いと思えない。
ともあれ、1980年代を多感な10代として過ごし、高校を中退した私からすれば、教育問題は長年、興味と関心の対象だ。
ネットでも様々な年代の人とコミュニケーションを取ることがあるが、総じて若い人の劣化が目に付く。別に自分が優秀などと言うつもりは毛頭ないが、日本語が通じにくいから、ギャグも通じない。
もっとワシにギャグを言わせろ!そして笑え!!(違う、そうじゃないw
・・・もし、真に保守を主張するなら、教育問題こそが本丸で是正する必要がある
文章が理解出来ず、漢字が読めないのは、朝鮮半島と同じレベルで劣化するのが分からないのだろうか。
1980年代以降のアメリカでは、ワープロソフトの普及で(スペルチェック機能の搭載で)英単語がロクに書けないアメリカ人が続出しているのだが、これも知らない人が多い。
日本人がそうなってしまったら、本当に日本は終わるだろう。

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