タグ:管理人的親不知讃歌, 2021(令和03)年, PukiWiki, ライブラリ, プラグイン, ファンビジネス, オンラインサロン, 牧美也子, 松本零士, 新海誠, 太宰治, 池田敏雄, 全ては感動からはじまる
2021/07/10
なんでだか良く分からないが、全然気が進まない。
どうしてもやらなきゃならないのに、そんなことはないだろうか?
実は、先月からFANBOXを完全撤退して独自にファンビジネスとオンラインサロンを再構築し、FANBOXで公開していたPukiWikiのライブラリとプラグインをメインサイトに移管する作業をしている。
公開していたプログラムは全部移管したものの、その導入・活用記事をメインサイトで公開しようと執筆をせにゃならんのだが、遅々として進んでいない。
特にPukiWiki用スパムフィルタライブラリの最新版に関しては、セキュリティの面からもPukiWiki用IPロガーライブラリと併せて記事化をしないと、スパムフィルタとIPロガーの導入を前提としている最新のスパムフィルタ対応メールフォームプラグインや、同じく最新のスパムフィルタ対応コメントプラグインの導入記事が書けやしない。
同様に、苦労して開発したサイト内検索プラグインも独自に仕様を策定して開発・公開はしたが、その導入・活用記事が書けないのも痛い。
もっと言えば、新たにPukiWiki用プラグインを開発したいのに、記事化が進まないから開発も進めようがないのだ。
そんなこんなで、未だに絶賛現実逃避中なのだが、先月は太宰治強化月間というのもあり、在野の太宰治研究家である故・長篠康一郎氏の著作を読み返していた。
白百合忌に関して太宰治真理教サイトで駄文を書いたところではあるが、たまたま本屋で牧美也子先生の次のマンガを発見&購入したのである。
個人的に小中学生の頃から松本零士先生や太宰治の作品を愛好し続け、近年では近現代史について深堀りしてメインサイトで記事を色々と書くぐらいだから*1、この牧美也子先生(松本零士先生のヨメさんにしてリカちゃん人形のイラストを担当(=デザイン)した偉大なマンガ家)の復刻本の内容に関しても、書きたいことは一杯ある。
それらについては今度また稿を改めてゆっくり書きたいと思うが、巻末のインタビューで、牧美也子先生がこう仰っている。
子供の頃から手塚治虫作品や有名な子供漫画は見ていますが、それは漫画というより書物の感覚で、特別な天才でなければ描けないと思ってましたから。そこで店先の貸本マンガの山と出会って、初めて気付いたんです。ああ、こんな表現方法があるんだって。熱気と親近感を感じました。文章が超下手、作文大嫌いだけど小さい時から絵は大好きだった。この方法でなら私でも描けるかなって。
牧美也子『白百合三代忌』(よるひるプロ・2006(平成18)年07月29日 初版第1刷発行)
「牧美也子先生インタヴュー」より引用
それだよ!その感覚だ!! トイレで爆撃しつつ、思わず膝を打ったのである。
結局のところ、「どうしてもこの気持(または自分の考え等)を表現したい」と思わなければ、誰が文章や絵にするだろうか? その芸術的表現が文学(文芸)だったり、絵画だったりするワケだが。
いや、別に文章や絵やマンガ等にしなくとも、もっとお手軽に友人と電話等でダベるとか、深夜にSNSに投稿するとか、ツイキャス等の個人配信の雑談で共有するのでもいい。
「誰か俺(私)の話を聞いてくれ」そして「良かったら共感してくれ」なのだ。
それが全ての創作の原動力だよな!と、改めて大いに納得した次第だ。
思えば、私とPukiWiki関連開発と、それを今やファンビジネスにしているのも変な話で、そもそもは本サイトを構築したいから、その実現方法のひとつとしてPukiWikiの利用を思い付き、実際に使ってみると古すぎる設計とその実装に「使えない」と思うから、本体の改造やライブラリやプラグインの開発記事をメインサイトに書いて来たに過ぎない。
そして「同じように困っている人がいるだろうから、自分が記事その他を発信することで使えるモノとして参考になればいいな」と思ってのことだ。
それが私にとって、ひとつの「やりたいこと」にもなっていたし、本サイトを含め「表現したいこと」になっていた。
ところが、人の良心というか、優しさに甘えて寄っかかるだけの人が多いのも事実で、実はウンザリもするのだ。
例えば、満員電車で他人に迷惑を掛けないように踏ん張っている人がいるかと思えば、流れに身を任せて何もせず、「いや、オレが悪いんじゃないから」とうそぶく人とがいるように、テキトーに生きている甘ったれの無責任人間は枚挙に暇がない。
現実にも、ネットでも、特にSNSではそんな人間を相手にするだけ時間の無駄だが、ともかく私の場合は仕事上「一般人のITの無理解」に向き合わねばならず、人一倍戦わざるを得なかったし、その都度自己反省をしながら絶えず嫌悪して来たから、余計にウンザリしてしまう。
ゆえに、こっちもネットで情報やソフトウェアを公開しているものの、実際にプロのSEなので有料なら面倒をみてやる!とする以外に方法(方便)がない。
別にネットで公開したり詳しく説明しなくとも、自分で開発して利用している私が困るワケでなし、やりたいならご自分で同等のモノを開発するなり、他人や他社に発注すれば良いことなのだ。それで満足のいくソフトウェアや回答が得られるのならば、それでいいではないか。
非常に前置きが長くなったが、改造しまくっているPukiWiki用スパムフィルタライブラリや、セキュリティ強化のために開発したPukiWiki用IPロガーライブラリをちゃんと説明するのが、やっぱり面倒なんだな、と思う。
つまり、「自分が本当に表現したいモノ」ではない、のかも知れない。
・・・イヤ、多分それも違うような気がする。
結局はPukiWikiは導入も面倒だし、標準のままじゃロクに使えないし、だったら他の海外製のMediaWikiとか、メジャーなWordPressの方が、コンテンツだけを作る人からしたら、そっちの方が楽だし良いだろう。
わざわざ面倒なPukiWikiを導入し、仮に私の記事やライブラリ、プラグインを採用したり参考にしてくれたら、それはそれで嬉しいが、普通の人がそこまでしてやる意味があるのか?と、私自身が非常に懐疑的になってしまっているからかも知れない。
その上で、スパムフィルタとIPロガーといった、目立たないセキュリティ部分をどう説明したら良いのか、イメージが出来ないのだな。
要するに自分が開発しているライブラリやプラグインも、「タダなら使って貰えるかも知れないが、カネを払ってまで使おうとは思わないのではないか?」という疑念がずっとあり、だから面倒な検証をせにゃならんライブラリの面倒な記事を書く気にならないのかも知れない。
「他に書きたいモノが一杯あるのに!」
私はそもそもが凝り性なのに筆不精で、面倒臭がりなクセに完璧主義者でもある。
それでいて根が酒好きの怠け者であるから、面倒なことはしたくない。
ならば面倒なことを定形・非定形作業に整理し、定形的な作業はプログラミングしてシステム化し、パソコンその他で合理的に処理すりゃあいいじゃねーか、と考えて実践する主義だから、その点はSEやプログラマに向いていると言えるだろう。
が、人間は感情の動物であり、理論(理屈)だけでは動かない。
分かってはいるが、モヤモヤしたままこうして生活せにゃならんのは不本意で、それとは全く関係なく、昨夜は金ローで「バケモノの子」をなんとはなしに観た。
初めて観るアニメではないから、作業しながらでの視聴ではあったが、改めて「人が抱える闇」について思い至った。
私はさっきからグダグダ述べているように、上述のような理由で絶賛現実逃避中でもあるから、このところ(今さらだが)最近になって「聲の形」や、「天気の子」「君の名は。」を観ていた。
これらのアニメ作品に共通するのは、思春期から青春期にかけての「なんとも形容しがたい時期における自己」であると言えよう。
ゆえに、これらの作品で作者が「何を表現したかったのか」が大いに問われ、視聴して消費する我々側が大いに共感を得る所以であると思われるが、同時に「自分はどうなのだろう?(どうだっただろう?)」と自問自答を促す作品でもあると言える。
私の場合はひたすらに本やマンガを読み、パソコンでプログラミングをしまくり、高校は卒業してない上に、本とパソコン以外では、バイトとバイクに明け暮れていた。
だから別にキラキラした青春などとはほど遠く、ネコとイヌ以外にモテた記憶もない。
それでも、遠く過ぎ去った過去ではあるが、「あの頃は良かった」と思える。なんだか知らないが、精一杯自分なりにモガきながら生きていたし、当然だが過去があるから現在の自分がある。
だから当時の自分とアニメの登場人物を比較するのではなく、「ああ、自分にもこんな時期があったナ」と思い、当時の自分はどうだっただろう?と思い起こすキッカケになる。
それにつけても、日本のアニメ作品のレベルの高さよ。
文学作品でも、日本人であるという贔屓目を外しても、世界初の長編小説である「源氏物語」から、個人的に敬愛してやまない太宰治まで、日本文学のレベルの高さとその素晴らしさは、世界に比類がないと思われる。
日本のマンガやアニメも、戦前からの田河水泡や、日本初のアニメ「くもとちゅうりっぷ」にその源流はあるのだろうけれども、一気に近代化して世界に飛躍させたのは手塚治虫だし、松本零士先生だ。
個人的に近年のアニメ作品はそんなに観る機会と時間がないが、今さらながら特に新海誠監督の「君の名は。」と「天気の子」が世界的に大反響を呼ぶ理由が良く分かったし、これからももっとすごいマンガやアニメ作品が登場し、日本人のみならず、世界中の人々の度肝を抜くことだろう。
「全ては感動からはじまる。感動したら無条件に取り組むべきだ」
これは日本コンピュータ産業の父、池田敏雄の言葉だ。
私は大学では商学部で学び、3~4年次は経営・情報コースで、ゼミは情報管理論で卒論は「IS構築における暗黙的ジレンマ・モデル」だった。
貨幣論や商業史の初歩から学ぶ商学部で、日商簿記3級レベルから企業経営までのイロハを学問的に学んだのだが、消費者行動論でいくら「メンタルマップ」の重要性と脆弱性を学ぼうが、ピーター・F・ドラッカーの「選択と集中」その他の組織論とマネジメントを学ぼうが、「人を感動させる」ことは学べない。
商売の基本は、確かに「いかに集客するか」ではある。集客できなきゃ、モノは売れないからだ。
だから、人が多数集まるネットのSNSでプロモーション(広告)を打ったり、サーチエンジンで検索の上位に掲載されるよう、SEOに血道を上げたりする。
しかし、繰り返すが人間は「感情の動物」だ。
理屈だけじゃ人は動かないし、ましてや命の次に大切(?)なお金を払うことなんかしやしねぇ。
キーワードは「感動」だ。感動させるモノじゃなきゃ、人はカネを払ってでも欲しいとは思わない。
等々、要はロック(心を揺さぶられるの意)じゃなきゃ、人は感動なんかしねーし、感動しないモノが売れるワケがない。
いくら消費行動が「所有から利用」のサブスクに移行しようが、その本質は変らないだろう。
もっと言えば一番古い商売は売春と言われていて、若くて美人の女性を抱けるという感動に(特にイケメンではない)野郎は、太古の昔からカネを払って来たんだよ。
とまぁ、いささか脱線気味だが、要するに私が独自に構築したファンビジネスとオンラインサロンで限定公開しているPukiWiki関連コンテンツが感動を惹起するのは・・・やっぱりまだまだ難しいな。
それは本サイトも含め、メインサイトの記事内容も同様だとは思う。
ゆえに今さらながら、太宰治や松本零士先生の偉大さを考えると果てしなく呆然とするし、現代のアニメ映画の旗手とも言える新海誠監督作品に、深く畏敬の念を持つに至るのだ。
やっぱ、スゲーな。
ワシもITの世界で人を感動させたいな(激しい今さら感)。
・・・現実逃避してる場合じゃねーな。(゚∀゚)アヒャ ←
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